苔むして
故郷へ帰ってみると、梅雨間近の実家の庭は青々としたスギゴケの波、見るからに清清しい。
ベランダの隅に見慣れない花の植木鉢がある。一つのガクにいくつも白い花をつけているが寂しげだ。名前を聞くと、「夜来香(イエライシャン)」。同名の戦前の歌謡曲があるが、その華やかなイメージとはおよそ縁遠い花だ。
遠蛙(とほかはづ)―遠くの田んぼで鳴く蛙のこと、春の季語だが、ちょうど今頃が蛙の合唱の最盛期となる。ふるさとの青田にはうるさいほどの蛙が鳴いている。のんびりするというか退屈というか。昨日までの日々を思い出しながらぼんやり庭を眺めている。
暇だから、母の短歌につきあう。歌を詠みはじめて10年になる。最初は、『信徒の友』という教会の雑誌の短歌欄に投稿した。選者の三浦光世さんと波長があったか、3年ほど経った頃からちょくちょく入選するようになった。特選を獲ったこともある。しだいに自信がついたのか、「NHK歌壇」にも応募するようになった。佳作、入選を繰り返すようになった。
ところが、ここへ来て足踏み状態が続いている。「NHK歌壇」では万年佳作で入選は少なく、ましてや特選には届かない。どうしたらいいかと短歌の研究書を紐解いてはみるものの、他の作家の歌をよしとはするが、自分はそういう歌を詠まないと拒んでしまう。意外に頑固なのだ。
誰が好みだと聞くと、啄木のような作品がいいという。斎藤史のような歌は憧れるが、自分で詠みたいと思う作品ではないという。
今月の「NHK歌壇」の兼題は城。それを織り込んで作ろうとするのだがうまくいかないらしい。ちょっと見せてみろと、短冊を手にとる。昔、小学校の学芸会で「荒城の月」を久留米絣の少年が歌った、という内容の短歌だ。学芸会、「荒城の月」、久留米絣、少年、イメージが常套じゃないか。この歌の心を残して、言葉をすべて入れ替えて作ってみたらと忠告すると、ああだこうだと抗弁する。おとなしそうな顔をして意外に頑固なバアサンだ。
母は短歌を独学でやってきた。どこの結社にも属していない。それはいいのだが、ややもすれば独善化することもある。やはり、他者性がときには必要だ。というようなことを、“説教”して短歌話しを打ち切った。だんだん、面倒くさくなったのだ。年寄りは時間という経験の苔を全身にまとっている。その苔をいったん剥がすということなどは至難だ。
「わかった、わかった。好きなようにやってくれ」と捨て台詞を吐いて、親不孝な私はまた自分の世界に引きこもる。河合隼雄さんの本でも久しぶりに読もう。
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