1ダースなら安くなる
赤塚不二夫は1935年に6人兄弟の長男として満州で生まれた。そして、敗戦でソビエト軍の侵攻となり、父はシベリアに抑留され、母と兄弟たちだけで、必死で逃げる。この途次、次女が病死。弟は養子となっていく。残された4人の子と母は命からがら日本へ引き揚げてきた。母の実家のある大和郡山に暮らすことになる。だが、この家にたどりついて30分後、一番下の妹は息をひきとる。生後6ヶ月だった。
赤塚が、後年この大和郡山の家を訪ねたときの映像を見た。そこでインタビューを受けて、赤塚はこう答えている。「妹が死んだのは、親孝行だと思う」・・・
幼い子ども4人をかかえ、父はいない。そんな家計を支えるには、母が外に出て働くしかない。だが乳飲み子がいてはそれもできまい。赤ん坊がいなければということを、考えれば妹は親孝行をしたと思わざるをえない、と赤塚はいつになく神妙な顔で答えている。が、ことさら赤塚が悲痛な顔もしていないところが、彼の悲しみの深さを感じさせて、見る者の心を揺さぶる。
漫画家として、赤塚はずっと芽が出なかった。石ノ森章太郎の影に隠れていた。その彼の才能をいち早く見つけていたのは石ノ森ではある。ギャグの才能をかぎとっていたのだ。
そして、画期的な「ナマちゃん」という作品を、石ノ森の導きによって生み出すのだ。ここからナンセンス・ギャグの世界に、赤塚は飛び出していく。
次に大きな転機は「おそ松くん」だ。1962年に少年サンデーで始めた連載で、赤塚はブレイクする。6つ子の兄弟が起こすドタバタだ。この漫画のギャグというものは、それまでの日本の漫画になかったもの。この物語のヒントは、かつて見た映画「1ダースなら安くなる」だったと、赤塚は語っている。
この映画を、昨夜見た。1950年のハリウッド映画だ。おそらく日本で公開されたのは52年ごろではなかっただろうか。当時、赤塚は新潟から上京して、小松川の化学工場で工員として働いていたはずだ。たまの休みの日に、近くの繁華街で見たのだろう。
映画は60年前のものにしては、カラーできちんとした作品に仕上がっていたが、とりたてて面白い話ではない。何が、赤塚をひきつけたのだろうか。
――私は、11人家族というホームコメディに赤塚はわくわくしたのではないかと思うのだ。それは、ジフテリアで死んだ妹、引き揚げてきてすぐ死んだ妹、養子となってもらわれていった弟。そんな弟妹たちを噛み締めながら、少年赤塚は、場末の映画館のスクリーンを見つめていたのじゃないか。
(この項つづく。というのは、映画を最後まで見ていないから。)
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