グスン
少年サンデー5代目編集長の高柳さんを取材した。とにかく面白い。話を聞いていると、創刊から10年ほどの少年週刊誌の神話時代は漫画家も編集者も読者も熱くユニークで純情だ、ということを実感する。ベビーブーマーの私はこのカテゴリーの中の読者に含まれることを光栄に思う。
その当時のぼくらはどんな読者だったかを、想起させる絵があの石原豪人画伯によって描きとめられているのを発見。題して「昔の子供はいろいろ苦労した」。
家にやってきたテレビはむろん白黒で14インチ。小さかったが現在のテレビの500倍ぐらい面白かった。テレビを見すぎると目を悪くするから、3メートルは離れてみなさいとしつけられた。一人に一部屋なんて身分の子供は周りを見ても誰もいない。弟や兄たちと混じる相部屋で勉強机があって蛍光灯のスタンドを立てて宿題をやっている、ふりをしながら引き出しにサンデー・マガジンを忍ばせて読んでいた。母親が近づいてくるとさっと引き出しを閉めた。それを弟が言いつけて、おかげでぼくは叱られる。母親がいなくなったあと、弟の頭をごつんとやる。泣く。ふすまが開いて「また、弟を苛めて」と再び説教をくらう。豪人先生の絵とキャプションは当時のぼくらの様子を活写している。「マンガばかり読んでいると叱られるので勉強をしてるふりをしてサンデーを読んだ。」
この記事は、実は高柳さんから借りた少年サンデー創刊30周年記念号の中にあって、1989年4月に発行されている。この記念号に飛び切りのネタがあった。それは、「おそ松くん」の一家のその後が作者赤塚不二夫によって描かれていたのだ。実に彼らは劇的に早死にしていたのだ。
6つ子一家(父も母も含む)は昭和45年3月6日に、はじめて食べたふぐ料理で全員中毒死。ぼくが会社へ入る直前、実家でだらだらしているときに、おそ松一家は死んでいたのだ。グスン。翌年の1月8日、私は大阪にいたその日、イヤミは歯槽膿漏で死んでいる。昭和50年の12月8日9日と連続して名優が死す。ダヨーンのおじさんとハタ坊だ。ハタ坊の場合、ハタに落雷して黒こげになったという。53年のエープリルフールにあのトト子ちゃんが拒食症になり体重3キロにまでなって餓死。グスン。デカパンは55年の8月6日ヒロシマの日に、金属パンツをはいたために傷が出来破傷風で死亡。そして、作者の赤塚不二夫は昭和63年1月1日、つまりこの記念号の年の正月にアル中でマンガが描けなくなって自殺した、とある。昭和の終わりとともに「おそ松くん」の人々はみんな昇天した。
少年時代、夢中になって読んだ「おそ松くん」の登場人物たちの悲惨な運命を、連載が始まった昭和37年から47年も経って知ることになった、嗚呼。
・・・と思って、よく考えたのだが、ちび太がこのなかに入っていないぞ。ひょっとすると、われらがちび太は、世紀を越えてまだ生きているのじゃないか。
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