清親のような朝のなかで
午前6時、尿意を感じて目が覚めた。厠からもどってベランダから外をのぞくと、薄青い闇が広がって、町の灯りが黄色くぼんやりうるんでいた。
まるで、小林清親の版画「新橋ステーション」のような光景で、思わず見ほれた。しばらくすると、うるさいカラス野郎たちが起きだしてカアカア鳴き出す。
昨日見聞したことが、頭のなかでぐるぐる巡る。
新潟時代の赤塚不二夫は映画の看板描きの修業に入っている。中学を卒業して短い期間だが、そこで最初に彼が描いた映画は「第3の男」だということ。これを赤塚は酔ってある映画監督に話していた。そういえば、彼は「第3の男」のラストシーンのパロディをよく描いていた。
50年前の3月に、「少年サンデー」と「少年マガジン」が同時に創刊され、今日のキッズカルチャー隆盛の礎を築いた。そのサンデー側つまり小学館の社長だった相賀徹夫氏が先月亡くなったそうだ。しまった。話を聞いておくべきだった。キッズカルチャー初期の証言者は、現在80歳代。チャンスがあるときに聞いておかないと後悔することになる。そこで、今月末には、特撮の伝説的な大物プロデューサーにインタビューをするつもり。
かつて、国際都市アカサカに「ニューラテンクォーター」という伝説的なナイトクラブがあった。焼失したホテルニュージャパンの地下にあった。そこのショーは本場アメリカにも劣らないもので、来日した外国人タレントで出演しなかったのは、シナトラとプレスリーぐらいだったと言われている。そのオーナーだった山本さんに会って、当時の話のあれこれを聞いた。まるで、映画のような出来事ばかり。
先日、お会いした横須賀の澄江さんから、敗戦後まもなく書いた手記が送られて来た。四百字詰め原稿用紙で120枚はある。ざっと目を通しただけでも鬼気迫る体験が赤裸裸に書かれていた。澄江さんの哀しみの深さをあらためて思う。
夜、新宿に出た。タケ先生の所で鍼をうってもらう。先生は不在でお弟子さんの小池さんが治療してくれる。このところ、トイレが近くなっていることや左肩がはっていると私は告げた。最後の客だったせいか、いつもより長く時間をかけて治療していただいた。最後に頭頂部にお灸をすえてもらう。鍼の先にモグサを付けるのでなく直のお灸だ。これが、脳天をズきーっと刺すようで痛気持ちいい。終わった後、しばらく動けず。
治療院を出て、歌舞伎町のホテル街を行く。近年、ホストクラブの看板が増えている。
紀伊国屋で資料となりそうな本を漁った。泉麻人『シェーの時代』、長谷邦夫『漫画に愛を叫んだ男たち』赤塚不二夫『赤塚不二夫120%』。DVDもレンタルした。「八甲田山」「半落ち」「刑事」「君よ憤怒の河を渡れ」。
そのまま、ゴールデン街の「とんぼ」に行く。店は開いたばかりで客はいない。アキ子さんと軽口をたたきながら熱燗を飲む。そうこうするちに、先輩がやってきた。カジキのかまと大根の煮物がうまい。ほくほくしながら大根を頬張る。30分ほどいて、店を出た。
新宿南口までぶらぶら歩く。相変わらず人は多いが、どことなく活気がない。ピンク映画館の前に立って、映画の看板をしばし眺める。「情痴」という青いペンキ文字がいい。
山手線の車内で『漫画に愛を叫んだ男たち』を広げる。読み始めたら止まらなくなった。
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