雑煮ボケした頭で
水村美苗の新刊『日本語が亡びるとき』に教えられるところが多い。話すことと読むことは対称にはならない。そのずれを突き詰めていくと、普遍的な言語と現地語の成り立ちのようなものがみえてくると、例をあげて水村は示してくれる。その説明が面白かった。
これを読みながら、“映像言語”の場合はどうなるのかと、ふと思った。
リュミエール兄弟が最初に撮影して投影した「列車の到着」という短いフィルムから始まって、西洋を中心にアメリカまで広がっていった映像は、その普遍性と現地性の弁証法的関係はあったのだろうか。
クロサワの映像は普遍的だが、オズの映像は日本的だなどということが言う人がいるが、そんなことは言えるのだろうか。現地性というなかに固有の表現、パロディというものを映像は培ってきたのだろうか。
そうではなく言語モデルなどを参照すること自体がナンセンスなのだろうか。
エリック・ロメールを2本見ていて面白いことに気がついた。ラブストーリーであっても音楽はほとんど用いられず、対話劇のような非ロマンティックな映画だ。理屈っぽい、いかにもフランス人らしい恋の描き方だ。
この作家が好きだと語るユン・ソクホ監督は、少なくとも表面的には共通性が少ないとみえる。よく似たタイトルの二人の作品を比較しても分かる。ロメールの「春のソナタ」、ユンの「冬のソナタ」。一見まったく似ていない作品だが、物語の表し方のちょっとした点で、似通ったものを感じることもある。それが何かまだしっかり把握できないが、両者に親和性はある。
ユンさんの映像体験は最初日本の映画やテレビ、それからハリウッドの映画となっているのだが、固有の映像感覚はフランス映画から得たものほうが大きいのではないだろうか。まだ、しっかりとした考えにまとまらないが、映像の普遍性と現地性ということに関心をもつのは面白そうだ。
ニュースが80歳の老人が餅を喉につまらせて死んだと報じている。毎年、かならず起きる。分かっているのに、なぜ毎年起きるんだろう。そろそろ、私自身が喉に詰まらせる時期が近づいているよなあと、雑煮ボケした頭で考えている。
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