メディアの飽和点
テレビ番組はなぜ停滞から衰弱へと後退しているのだろう。
昨夜も年末特番のいくつかを見た。それなりに新しい工夫をしているのだが、番組は全体としてどうってことのないものでしかない。
例えば、6チャンネルでやっていたスポーツバラエティ。かつての名作「筋肉番付」を改善して、アスリートだけの戦いに素人の愛好家に下駄を履かせて参加させて競わせている。
フットサルの競技では、全日本サッカーの男子花形プレイヤー一人となでしこジャパンの女子で混成されたアスリートチームに対してお笑いタレントでサッカー実績をもつ者と引退した全日本男子の混成された挑戦者チームの戦い。この場合、挑戦者側が点をいれると2点として換算されるとして勝負を面白くさせている。
サッカーの専門家をフットサルという別競技に置き換えて、かつ挑戦者も単なる嗜みを越えた実力者たちで構成されているなど、新しい演出を加味しているのはよく分かる。たしかに、その試合は面白かった。
が、ワイドなこのスポーツバラエティが終わってみると、その面白さはすぐ消えてしまう。特番を見た興奮は薄く持続しない。
12チャンネルでやっていた、久米宏司会の「新日本人」を考えるという特番もそうだった。スタジオ、ビデオリポート、ともによく出来ていると思うが、終わってしまえば心に残らない。
なぜだろう。十年前だったら、十分話題となった番組が、どれを見ても心にしみ込まないのだ。
あえて言えば、既視感か。初めて見るはずの番組だが、どこか見たことのある何か予測がつくような構成/演出というのが多い。それを乗り越えようと工夫すればするほどズルズルとその方向へ溶解していく。
一方、アーカイブスの映像をもてはやす向きもあるが、それとてやはり熱度はない。「全員集合」の舞台は今見てもすごいと思うが、ではこれで番組編成できるかといえばそれは難しいだろう。「全員集合」の場合、舞台中継という点がひとつのポイントになっているが、客席のちびっ子たちの熱い思いが時代を構成していた。その思いは現代にはないから、再放送されるコンテンツはゴースト(亡霊)でしかない。
こんなふうに考えると、テレビというメディアは今交代期に入ったと考えざるをえない。
50年前、映画とテレビのメディア交代が起きた。映画の全盛期がわずか3年で入場者が半減したのだ。一方、テレビ受像機の数は倍々ゲームで増加した。全盛期の頃の映画は何をやっても面白く当たった。小津や成瀬、黒沢、木下という巨匠も活躍したが、東映のこども向けのチャンバラ映画や大映の娯楽映画にも客は入っていた。
ところが、数年すると、何を企画しても二番煎じのようにみえてきた。以前のように社会現象にはならず、「映画界」だけのヒットという観点に変わっていった。今、ハリウッド映画がそれだ。「レッドクリフ」「地球停止」など巨費を投じて製作されても、どうしても見たいと思った「007」のようなオーラがない。そこで、旧作のリメイクやアジア映画の脚色などで趣向を変えようとするが、すればするほどつまらない。あり地獄に呑まれたような状況となっている。
テレビも同じことになっていないか。映画全盛のころの映画人はおごっていた。テレビを電気紙芝居と軽んじ五社協定を結んでテレビへの協力を拒んだ。安逸を貪っているうちに映画は新興メディアのテレビに追い抜かれ、以後50年娯楽の王様の座はテレビに奪われることになる。この場合、映画とテレビという交代だった。
ではテレビは何と交代か。ネットか。ネットはすっかり定着し、テレビのメディア性を浸食するというより、独自に発達を遂げている。テレビは新しいメディアにとって代わられるというより、自衰していくのではないだろうか。どうも、そう思えてならない。
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