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定年再出発  


懐かしい空
by yamato-y
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黒い雨のこと

黒い雨のこと

 核による黒い雨はヒロシマとナガサキしかない。
数千回、数万回におよぶ核実験があったとしても、黒い雨は降らなかった。なぜなら黒い要素の炭素は人家が燃えて生成したもので、ほぼ無人の地帯(ノーマンズランド)では草も水も炭素となりえず、核爆発はあっても黒い雨は降ることはなかった。

 広島の黒い雨の降雨区域のことは早くから知られていた。井伏鱒二のそのものずばりの『黒い雨』という作品が果たした役割も大きいだろう。実際、広島の区域は市の西部のかなりの部分に降ったこともあって、多くの被爆者に体験が残されていた。
 一方、長崎は爆心そのものが市の北部浦上地区という限られた区域ということもあり、その後吹いた風に乗って核分裂生成物質は島原方向の山間地にフォールアウトしていった。そこは人家が少ないため、黒い雨の体験者は限られた人しかいない。

 31年前、長崎放送局に勤務したいたとき黒い雨のことを追いかけたことがある。ちょうど被爆40年を迎える時期にあたり、長崎、広島の両放送局が共同で取材制作しようということになり、そのテーマとして黒い雨が挙がったのだ。

 昨日、大磯の書屋を整理していたところ、1985年の取材ノートとファイルが出てきた。

その仕事の始めは体験者の証言集めだった。ローカルニュースを通じて何でもいいから黒い雨の情報を教えてほしいと呼びかけたところ20通ほどの手紙が到来した。その一つ一つを取材して、雨の「物証」を手に入れようとしたのだが、じっさいにはうまくいかず、広島キャンペーンで一件有力なものが見つかっただけで終わった。長崎では証言だけは8件ほどあった。その分布を見ると、明らかに浦上から島原方向に帯状に並んでいた。

 この風や当日の気象状態を知るために、島原観測所に当時在職していた所員たち数名と雲仙付近の長崎を遠望する小高い山に登った。当日は晴れて暑い日であったが、長崎あたりで爆発が目撃されたあと、その雲が流されて橘湾を越えて島原半島にまで至ったということを所員の証言、観測所日誌やそのほかの資料でも裏付けられた。

 次にその分布を正確に把握したいと放射線測定を実施する。その中心が理化学研究所の岡野真治博士となった。理化学研究所には昭和20年に雨どいなどから採取された黒い雨の粉末が保管されていて、その分析を依頼したこともあって、理化学研とは懇意な関係にあり、そこの専門家ということで岡野博士が分布調査の担当となった。

 飄々とした岡野博士が持ち込んできた機材はアタッシェケースと一台のモニターテレビだけ。こんなもので測定など出来るのかと危ぶんだが、岡野さんは淡々と調査準備を行い、機材をワンボックスカーに積み込んで出発した。車の先頭にセンサーとムービーカメラを設置し、そこで拾った放射能の価と核種をモニター画面に表示するという優れた装置、すべて岡野さんの手作りだという。走行した場所がすべてビデオに映像が記録されると同時に放射能の有無・価がたちどころに画面に表示記録されるのである。

 余談になるが、この放射能測定装置は15年後に発生した福島第一原発事故の汚染地帯を克明に記録してその威力を満天下に示すことになる。岡野さん一人で研究チーム一個師団にあたるという伝説が生まれたのもむべなるかな。今になって岡野さんの偉大さを知ることになるが。

 調査のため2日かけて長崎市内から島原半島南端までワンボックスカーを走らせた。40年経って減衰したとはいえうっすらとセシウムが捕らえられ、黒い雨の降雨域がおおよそ浮かび上がった。さらに綿密な調査を重ねればもっと正確な情報も得たかもしれない。が、番組取材は思わぬ発見によって大きく広島へ軸足が移っていく。その頃広島の己斐で見つかった黒い雨の痕跡の調査が大詰めを迎えていた。ある民家の屋内の壁のうちに黒い雨の痕跡が残っていたのだ。屋内であったため、戦後あまた行われた地上核実験の影響を受けていない。純粋に広島原爆の産物として現認できる最良の資料だった。番組の主筋はそちらへ移っていって、長崎は番組の脇筋になった。
 この後、取材班は広島の黒い雨痕跡のデータを持ってアメリカに飛び、原爆を開発したR研究所などを訪ねて、開発当事者たちの見解をも取材して、黒い雨の正体に迫っていく。 その成果は1985年、「黒い雨~広島長崎原爆の謎」と題して放送された。

 あれから31年、手元に長崎黒い雨のデータが残された。このまま廃棄するのは忍びない。


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# by yamato-y | 2016-08-15 14:38 | Comments(0)

歩くこと

歩くこと

2月からジムに通い、歩行と筋肉トレーニングの軽いメニューを、週3回こなしている。
オープンが9時なので、8時40分過ぎに家を出ると、定刻の5分前に着く。そこで、すぐに使用するマシンの予約を入れて着替えをする。
 私の場合、30分時間制限のランナーマシンを確保することから始める。走らない、早歩きを時速6キロで歩く。歩行距離はだいたい2・97キロ。終わると、汗びっしょりとなる。この後、さまざまなマシンによって、腕や脚、背筋などを鍛えるのだが、それぞれ連続10回を1メニューとして、3回繰り返してエンド。これを5種目ほどやって、最後にマットの上でストレッチを入念にやって終了となる。
 今の季節であれば、終了時にはシャツは汗みずくになって、水分補給がおっつかない。
ロッカールームにあるシャワーを浴びて、着替えてセンターを出ると、いつも10時。これから自宅にもどって、着替えて出社。オフィスの席には10時40分過ぎにはいることになる。
この習慣を半年続けた。体調は悪くない。なにより快便。眠りは浅いが。

 さて歩くことだが、マシンに歩行距離や歩幅が表示されるので、だんだん自分のペースが分かってきた。歩幅は67センチから81センチ。1000歩続けると700メートル少し。時間にして7分20秒。これを基盤にして、身の回りの環境を計ってみようと考えた。

 目黒の自宅からJR駅まで300歩、210メートル。
 JR渋谷からスクランブルを渡り、みずほ銀行の前を通って、東急本店前までで500歩。
そこからオフィスまでが800歩。つまり渋谷駅から会社までが1300歩、910メートルとなる。私は朝夕通勤だけで3200歩、2240メートル歩いているわけだ。

 この身の回りを計測することをもう少し続けてみよう。なんてことをほざいていたら、仲間がそんな面倒なことしなくて万歩計を着ければいいじゃないかと冷やかす。いや、手作業で計測するから面白くてタメになる、のだ。

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# by yamato-y | 2016-08-04 12:06 | Comments(0)

神戸行き

神戸行き

8月2日、家を6時10分に出た。
山手線で品川までの途中、カメラマンのNさんと偶然遭った。久しぶりだ。いろいろな事情があって、カメラを回す機会が減っているNさんだが、言葉の端々に映像に対する思い入れを感じ、やはりこの人も番組を作るのが好きなんだなと改めて知って嬉しかった。

新幹線は未明の豪雨で、小田原あたりでのろのろ運転でダイヤが少し乱れていた。来た電車に乗ったらひかりで、結局名古屋で降りてのぞみに乗りなおし、新神戸に着いたのは9時41分。駅前からタクシーで葬祭場に駆けつけると、ちょうど曹洞宗の導師が入場するところだった。
2列目に座り、亡き友Eの遺影をしっかり見る。すこし年をとっているが、昔の面差しは残して、穏やかな顔だった。若干憂いがあるように見えたのは思い過ごしか。目の前の棺のなかにEが眠っていると聞いても、にわかに信じがたい。そのあたりから、「元気かあ」と言って現れそうだ。
葬式は1時間で終了。最後に棺に花を投げ入れて終わった。

会場に、当人の生前書いておいたという遺書らしき文章の朗読が流れた。1970年大阪万博でみな浮かれていた夏、彼は職を探して大阪の街を歩き回っていたという。「ここが人生の底だった」と回顧している。その後、業界新聞の記者となり、以後41年間勤め上げたことになる。毎日原稿書きと取材に追われるが、それでも文学への志は一日も忘れたことがないと、Eの最後となった文章の後半に「決断」を述べていたのが、心に残った。

 11時過ぎ、会場を後にして三宮ガード下の「珉珉」へ。ギョーザ2皿と生ビールで、陰膳めいてEの冥福を祈る。
 そのあと、阪神電車に乗って東灘の住吉へ向かう。ここはEが最初に住んだ町で、2年ほど遅れて私もそこに住んだ縁の場所だ。
こんなことがなかったら、おそらく来ない下町の小さな駅に到着すると、8月のつよい日差しが駅舎をじりじり焼いていた。白茶けたアスファルトの道を歩いて、街の中ほどにある浄土真宗本願寺派の寺院を探す。その隣の文化アパートの2号室が私の「人生の底」を過ごした場所。あの頃、私はどんな目をしていたのだろうか――。Eの死を契機に、私は当時の自分を確かめたい気分でここまで来たものの、何かふんぎりのつかないもやもやしたものが胸中に漂っている。(意気地なし)

街は40年前とすっかり変わっていた。20年前の阪神淡路大震災で、この街も手ひどく傷づけられたのだから変わっていて当然といえば当然。

 私のアパート以外の町並みはすっかり整備され、小じゃれた戸建てが並ぶ中、私の文化アパートは1973年のまま。まるでそこだけ時間が止まったようだ。ドアの取っ手の下にある傷もそのまま。だが、このアパートに住人はいないと思われる。人の気配がまったくない。
しばらく、その建物の周辺をうろうろした。その後、Eが住んでいたあたりを回って、JRの住吉駅に向かった。
 
 新大阪で、小腹が空いていることに気づき、たこやき10個のセットを食す。ハイボールを飲もうかと思ったが、新幹線のなかのほうが快適だと気づきやめた。

米原を越えると伊吹山が左側に現れる。この山の向こうに、ふるさと敦賀があるのだ。
帰路、ふと思った。Eの葬儀の最後に流れた曲、中島みゆきの「糸」だった。「なぜめぐり逢うのかを私たちはなにも知らない」というあの曲だ。ピアノだけの演奏だったのだが、あれは故人のリクエストだったのだろうか。

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# by yamato-y | 2016-08-03 12:26 | Comments(0)

 友だちが死んだ

 友だちが死んだ

昨日、友達の妻から電話があった。夫のEが死んだと知らされた。土曜日に貧血を起こして絶息したそうだ。
5月下旬に、Eから手紙を貰って遺言のようなことが書かれてあるので、気になって、高山のTとかたらって神戸三宮まで行って、彼と会い、酒を飲んだ。最後の酒盛りになるかもしれない、とEも言っていた。肝臓がやられて大量の血を吐いたというようなことをぼんやり語った。顔が腫れていた。むくんでいると言っていいか、最初は元気だったが、1時間ほど経つといっきょに口数が減った。疲れやすくなっている、予断は許さないだろう。

三宮の改札で、Eを送った後、Tと二人で飲むことにした。三宮駅裏のさえない居酒屋だった。Tも私と同じ印象をもっていた。「せめてあと2年。70までは生きてほしいな」。2年とはあまりに短い、がそうも言っておられない。互いに皆晩年にあることを思い知らされた夜だった。

 Eの妻からきいた訃報を、飛騨高山のTに伝えた。突然の電話でTも異変があったことを悟ったのだろう。「何かあったのか」と聞いた。死を伝えると、「Eの死は思ったより早かったな」と残念そうに語った。相談して、私だけが火曜日の葬式に出席することにした。教育委員会の仕事をボランティアで行っているTには夏休みは休むことができないのだ。詳しいことが分かったら後刻報告すると言って私は電話を切った。

 ちょうど小林勇の『彼岸花』を読んでいて、33人の故人を偲ぶ厚情の文章に心打たれていた最中だったから、Eの訃音が入ったとき最初フィクションのようにしか思えなかった。
Eの妻とも高山のTとも話し終えて、ひとりぼんやりEやTと遊び歩いた昭和41年の夏から冬にかけての金沢の日々を思い出す。私は浅野川の、Eは犀川のほとりに住んでいて、その間を幾たび往復したことだろう。まだ金沢に市電が走っていたが、節約のため歩いた。そうして浮かした金でサントリーレッドを買い、Eの家の電気炬燵に足をつっこんで、Eの文学談義を聞いた。神戸出身の彼が金沢を選んだのは、母が泉鏡花を愛読していたからと言った。彼の名前の欣哉は鏡花の「滝の白糸」の主人公の名前である。
 サークル活動などはまったく関心がない私と違って、Eは文芸部に入って精力的に創作や詩を書き始めていたし、先達の作品の研究にも余念がなかった。当時、彼は現代詩人の黒田三郎と茨木のり子に強い関心を示した。黒田の「ひとりの女に」をよく朗誦した。普段照れ屋のくせにそういうときEは黒田三郎になりきって、「ユリ」への思いを密やかに語った。

 教養部から専門にあがる時、出席日数が足らないという理由で留年になった。実は私も足らなかったのだが、担当教官に泣きを入れて、追加論文を書くことで許されたのだが、Eは一度だけ請願に行ったものの、教官の態度が無礼だと二度と足を運ばなかった。そのため1年間Eはキャバレーのボーイで生計を立てる。落第して親からの仕送りに頼るのは筋が通らないという。加えて世の中の裏も見てみたいという欲求があったのだろうと、今になってEの思惑を知る。Eの姿がキャンパスの中で見かけることがめっきり減った。その頃から次第に疎遠になる。

 大学がロックアウトされ、授業が休講続きになった頃、Eが退学して関西に戻ったと聞いた。しばらくすると、挨拶状が届いてある業界新聞の記者になったと報告があった。大学中退で業界新聞の記者、まるで絵に描いた文学青年じゃないか。私は少し羨ましかった。

 Eの思い出は尽きない。明日、葬儀に出たあと、Eの人生をもう一度考えたい。

最後に、小林勇が好きだったという蘇東バの一節を記しておく。
人生無別離 誰知恩愛重

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# by yamato-y | 2016-08-01 14:18 | Comments(0)

再会

神戸にて

午前3時、神戸のホテルで眠れずこの文章を書いている。昨夜、三ノ宮で大学時代の親友二人と30年ぶりに再会し、痛飲した。神戸に住むEの肝臓がよくないということを知り、高山のTと相談して再会の場をもった。神戸市役所の24階の展望台から復興した神戸の港を眺めた後、三ノ宮駅そばの地下の割烹で2時間ほど三人で語り合った。近況のこと、遠い学生時代のこと、今の時代のこと。夢中で語りながら、あっと言う間の2時間。気がつくとEは疲れた様子、お開きにして、三ノ宮駅の改札で別れた。彼は静かに笑いながら人混みの中へ消えた。
残ったTと私はもう一軒だけ居酒屋で飲み直し。去った彼の無事を祈り、互いに頑張ろうと励ましあう。昔のままだ。
そのあと風に吹かれて、湊川神社まえのチサンホテルに戻り、風呂に入ってすぐ寝た。

そして目が覚めたというわけである。様々なことが去来する。
長い間忘れようとしていた金沢時代。貧しく、サントリーのレッドしか家飲みできなかったあの頃。
夜が明けたら、三人はまた元の暮らしに戻ってゆくだけ。

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# by yamato-y | 2016-06-05 03:55 | Comments(2)

断捨離か終活か

断捨離か終活か

週末、ずっと大磯にこもっていた。蔵書の整理というか処理に追われた。1970年から仕事に就いて大阪、荻窪、武蔵小杉、長崎、成増、広島、大磯と転居を繰り返しながら○○ほどの書物と暮らしてきた。どうやら目黒で終焉となりそうな気配、戸建ての家ならともかくマンションでは本を収納できない。かと言って古本屋に捨て値で売りはらう気にもなれない。

故郷の図書館でもお願いしようかと、ある人に相談したところ色よい返事をいただけた。実数がどれほどで、どんな分類の図書があるかを報告することも兼ねて、先週から週末に一人で大磯に戻って本の整理にあたった。
もっとも多いのは大江健三郎関係書であったが、意外にあったのが詩、詩人論、詩批評だった。ざっと350はある。こんなに現代詩を読んでいたっけと自分でも首をかしげるばかり。むろん、句会に入っていたから俳句関係書は少なからずあるが、それと負けないほど日本の現代詩が多い。中でも交流のあった吉野弘さんのものがエッセイまで含めるとかなりあった。整理しながら、久しぶりに黒田三郎、永瀬清子、立原道造らの詩を読みふけった。大手拓次や八木重吉、高良留美子、石川逸子の詩の言葉は今思い出しても胸に沁み入る。
その昔、映像の勉強に役立つだろうと演劇書に手を出したことがある。その余波で、ブレヒトやテネシー・ウィリアムスらの戯曲、詩と花田清輝の著作集が書棚の奥から出てきて、しばし読みふけった。先頃亡くなった蜷川幸雄も若い頃は、ブレヒトの芝居に強い関心があったと記憶するが。異化効果などということに言及していた気がする。

戸惑ったのが雑誌の類。「世界」「群像」「創」「ブルータス」「新日本文学」「美術手帖」「芸術新潮」の数が半端でない。だが、古書としては価値ゼロに等しい。これらは古紙として資源ゴミの日に出すよう、隣人からアドバイスを得た。

職場の友人から断捨離をするとスッキリするよと言われたが、そうはならない。まだ大磯の山の書屋に梱包しないままにしてきた諸書を思って恋々としている。憮然と湘南新宿ラインの車窓を眺めている。


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# by yamato-y | 2016-05-30 12:46 | Comments(0)

3つのぼう

3つのぼう

人間は赤ん坊として生まれます。親の情けで生きるのです。赤ん坊は1人では生きていけません。一つ目の“ぼう”です。

長じて、人間はときどき生きているのが嫌になり、姿を消したくなります。実際にはなかなか消すことはできない、せめて遊びだけでもと、「隠れん坊」が生まれました。これで2つめの“ぼう”です。

 アテネの神殿には、「汝自身を知れ」という扁額がかかっていたそうです。偉いことを考える人が古代には複数いたそうです。ソクラテスさんもその1人ですが、彼はこの言葉について言及しますが、彼が考えたわけじゃない。
2014年ごろから、渋谷のスクランブル交差点に長い棒を持った外国人観光客の姿が目につくようになりました。よく見ると、棒の先にはカメラ代わりのスマホが装着され、そのレンズは棒をもつ本人をねらっています。まさに「汝自身を知れ」。その棒は自撮り棒と呼ばれ、3番目の“ぼう”にあたります。

 こんな世迷い言を思いついたので、ブログに書き残しておこうっと。

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# by yamato-y | 2016-05-25 15:51 | Comments(0)

手紙の別れ

若葉風

 日曜から大磯の家に来て、書棚の整理をしている。築20年のまだ若い家だが、あちこちに故障が発生している。私の人生は、家族のこと、仕事のこと、個人の内面のこと、などは人並みの幸せを与えてもらったと感謝している。ただ一つだけ、ずっと悩まされたのがこの大磯の家だった。職場まで1時間15分の遠距離にあるなんてことは当初から予想していたから問題ではない。家そのものの欠陥に10年以上悩まされて来たのだ。どれだけ補修工事を行ったことだろう。かかった経費も今ではそれなりの額になった。それでも、一生のなかの最大の買い物であったわが家だからなんとか住める状態をキープして自分の終の住処(すみか)にしたいと頑張ってきたが、4年ほど前から精魂尽き果てて都内のマンションに越した。
 週末のセカンドハウスでもいいかと考えて、贅沢ながら二つ所有していた。他にこれといって金のかかる趣味や道楽ももたないから切り詰めればなんとかなると思っていた。2年ほどこれといったトラブルもないまま過ぎた。一昨年の暮れあたりから、屋上の防水などにほころびが出てきた。部分措置をやってみたが、うまく収まらない。そうこうするうちに、昨冬長い間放置した。年明けに訪ねてみると、応接間の壁にシミが出来ていた。

 それからずっと考えた。―そして、結論を出した。これ以上は無理だ、この家をアバンダンしようと。もちろん私一人の判断ではない。家人や子供の意見も入れて、検討した結果である。
おそらく1年後には建物が消えているだろう。それまでの過程を映像で記録して、住宅トラブルドキュメンタリーでも制作して、世に建築家とか工務店とかいう人たちの悪辣さを訴えてやろうかと考えてみたり。

 そういうこともあって、週末には大磯帰りが大事な日課となった。今、二千におよぶ書棚の雑多な書籍の整理にかかっている。今回は、大江健三郎さんに関する資料と書籍の整理だった。大江さんの単著だけで195、他の人が書いた評論でも30あった。この他に、私が大江さんと同行取材したときのノートや資料を合わせると膨大なものになる。
次回は、花田清輝とフォロアーたちの書籍、雑誌などの整理にかかるつもりだ。

 本棚の整理をするとどうしても書類の破片がぼろぼろ出て来る。それをビニールの大袋に入れていた。朝9時半、チャイムが鳴ってゴミ収集車がやって来た。さっそくビニールの袋に昔の日記や名刺などを詰めて出した。ひとつひとつ精査していたら、また整頓が停滞する。思いきってミズテンで一袋を作り上げ、収集車のローラーの間に押し込んだ。
 袋は何の悲鳴も上げず、ゴミの闇のなかに吸い込まれていった。
アディオスわが××よ

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# by yamato-y | 2016-05-16 22:16 | Comments(0)

ジョナス・メカスのように

敦賀、山中への旅
2016年GWは娘夫婦と一緒に私のふるさとを訪ねる旅となった。今日はその1日目、13時に敦賀の待合室で会うことになっている。そのまま実家へ向かう。家の取り壊しがまもなく始まるので、その最期を娘とつれあいに見せたかった。
そのあと、莇生野の丘にある教会の共同墓地へいって、今年亡くなった弟の死について父母に話をしようと考えているのだが。

おそらく、北陸が初めてのタ君(娘のつれあい)に気比の松原、常宮、敦賀半島などを見せようと計画している。有り難いことにタ君は運転が好きだということで、移動は心配しなくていいようだ。朝、品川を発ったが、薄曇りのなかに澄んだ青空が顔を出していた。日吉丘陵の背後に富士山が冠雪の美しい姿を見せていた。今日は暑くなりそうだ.

ジョナス・メカスの「リトアニアの旅」を思い出した。アメリカに住むメカスは✖️十年かぶりで故国リトアニアを訪ねる様子をメカス自身がフィルムカメラで収録した、紀行フィルムドキュメンタリーの名作だ。なぜこれに思い当たったかは、今車中で記しているので詳細を期すことができない。後刻試みることにしよう。
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# by yamato-y | 2016-04-30 09:55 | Comments(0)

粗忽もの

粗忽もの

 3日前から始まった熊本地方地震、16日未明に起きたマグニチュード7・2の大地震の悲報が終日テレビで伝えられる。苦しくなるが、テレビから離れることもできない。間断なく続く余震におびえる住民の顔が哀れで、居間でテレビを見るだけの自分が腹立たしい。じっとしていられない。

九州の惨状を座して見続けることに耐えきれなくなった。とうとう午後2時、家を出て、目黒区民センターのスポーツジムを目指した。ランニングで自分の肉体を追い込みたいと思った。甘ったれている、自分でも分かってはいたが。

 目黒駅の脇を抜け、権之助坂を下る。坂の中程、二股の信号は赤なのでパスして、さらに下の信号付き横断歩道まで走り降りる。気持ちが急いていたかもしれない。弘南古書店のあたりで足がいささかもつれ気味になった。やばいと思って体勢を立て直そうと思った矢先、目の前を自転車がさっと通り抜けた。足がからまった。体が前に投げ出されて行く。やばい。このままでは石畳と激突する。体をかばえ、私はわたしに命じた。ゆっくり倒れながら、アタマをかばうように腕を持ち上げた。

 どさっと倒れた。体の右側に数カ所痛みが走った。倒れてしばらく起き上がれなかった。若い男が寄って来て、「大丈夫ですか」と案じてくれる。礼を言って、ゆっくり立ち上がるつもりと応えると、その人は離れていった。

 立ち上がって、手のひらと右膝から血が流れているのに気がついた。右手のひらは真ん中がべろっと剥けている。膝はコールテンのズボンが破けて、2カ所から血が垂れていた。痛みはすぐにはなく、2、3歩行くと、猛烈な勢いでやってきた。(まずい。どこか骨折でもしたのだろうか)

 ジムへ行くのは止めて、家に戻ることにしたが、なにせ繁華街なので、通行する人からじろじろ見られる。恥ずかしいやら痛いやらで、気がすっかり顛倒してしまった。
 途中、駅前の高木薬局に寄って、消毒薬と血止めのスプレーを購入。そのまま、家の風呂場で傷口を確かめながら、治療する。消毒薬の最初の一吹きの痛いこと。手のひらに真っ赤に燃えた炭を落とされた気がした。血だらけで、怒髪天をついた私の姿を見た家人は絶句。

 10時間経って、ようやく痛みはおさまったが、依然打撲した右手首は回しにくい。だが、熊本の被災した人たちの苦労に比べたら、こんな怪我などたいしたことではない。どうか大雨を降らさないでと念ずるばかり。


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# by yamato-y | 2016-04-17 01:10 | Comments(1)


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